2018.06.17 Inter FM「Daisy Holiday!」より

 私的永久保存版回、ふたたび…圧倒的情報量でした。

※細野さんの「プロデューサー」発音に熊本訛りを感じる…

 

daisy-holiday.sblo.jp

 
 
H:こんばんは。細野晴臣です。えー、きょうはですね…久しぶりというかな。この番組になって初めてだったかな。s-kenさん、いらっしゃい。
 
S:こんばんは。
 
H:マイク近いね(笑) 「s-ken」という名前になって30年以上でしょ?もっとか。
 
S:そうだね、1981年に…s-kenって最初はバンドでスタートしたんだけど。まあその辺は今度出る回想録でも書いたんだけど。
 
H:うん。
 
S:高円寺に住んでた時に、友達の友達みたいなのが街角で「おう、エスケン!」って俺を呼んだことがありまして、それ以来ずっと、一生の付き合いなんですけど。
 
H:ああそう。
 
S:それでおもしろいことに…当時さ、東京ロッカーズ界隈の人はみんな、(Frictionの)レックだとかラピスだとか、なんか変わった名前のヤツがいっぱいいたんだよ。(Mr.Kiteの)ジーンだとか。
 
H:いたいた。
 
S:みんな本名はよくわかんない、みたいな。
 
H:そうだよね(笑)
 
S:で、その僕をs-kenって呼んだヤツが立ち飲み屋かなんかで俺のことをエスケン、エスケンって言うから立ち飲み屋に来てるヤツらがみんなエスケン、エスケンって言い出しちゃって。
 
H:そうなんだ。自然にs-kenなんだね。
 
S:で、いろいろあって、すったもんだして…1981年にレコーディングの話が来たときに「じゃあもう個人名にしちゃおう」って。
 
H:あ、そうなんだ。s-kenを個人名に。
 
S:そう、バンドの名前だったものが…まあ、よくあるパターンなんですけどね。
 
 
 
H:僕が『TROPICAL DANDY』っていうアルバムを1970年代に作る時に初めて会ったんですよね。
 
S:そうだね、1974年とか?
 
H:そう、そのくらい。
 
S:お互い、だから…26とか27歳ぐらいかな?
 
H:若かったね。
 
S:40年以上前か(笑)
 
H:なんで(会いに)行ったのか…相談しに行ったのかな、僕が。
 
S:回想録にも書いたんで読んでほしいんですけど、それはね、ちょっと長くなるけど。
 
H:うん。
 
S:そういう趣向があって、そういう趣向のもとにいろいろやってたことを…ライトミュージックで働いてた時に、傍でいる人間で通じそうな人、細野さんぐらいしかいなかった(笑)
 
H:ああ、そうか(笑)
 
S:ひとりで考えてるのもね。大体考え自体がさ、流行のことと関係ないわけ。
 
H:関係ないよね(笑)
 
S:やっぱりひとりで考えてるのも寂しいワケですよ。だから細野さんに声を掛けたっていうワケですね。
 
H:あ、僕からじゃなかったんだっけ?
 
S:いや、僕から声を掛けましたね。
 
H:ああ、そうなんだ。まあとにかくね、興奮したんですよ。当時はマーティン・デニー(Martin Denny)が突然僕の中から…記憶がね。子供の頃聴いてたから。
 
S:うん。
 
H:アルバムとか、レコード持ってないからさ。誰か持ってないか、と思ってね、探してたんですよ。で、相談しに行って…河村要助さんが持ってるって言うんで(笑)イラストレーターのね。そんでカセットをもらったんだよ。そっからですよ、だから。
 
S:それのいきさつはね、ちゃんと書きました。
 
H:はい。その回想録が出ます。えーっと…『S-KEN 回想録』、1971年から1991年までのお話が…僕も冒頭読んだんですけどね。ちょっと忙しくて全部は読んでないんですけど。
 
S:意外とね、そのことに関しては色んな人が色んなことを言ってるんで。
 
H:ああ、そう。
 
S:最近になって、いろいろインタビューを受けたり。どうしてこうなったかっていうのを僕の記憶の範囲で、書いたんですよ。河村要助さんは僕がレコードを貸し借りする仲間で、それでかなり経って…僕が貸したレコードがありましてね、ラテンのレコードを貸してくれ、って言うのね。で、30枚ぐらい貸してるうちに、その中にウィリー・コロン(Willie Colon)っていう人のアルバムがありまして。
 
H:ウィリー・コロン、うん。
 
S:で、それが彼はすごい気に入ったみたいで。で、その中で、リコス・クレオール・バンド(Rico's Creole Band)っていうのがあったんですよ、僕が貸した中で。
 
H:うん。
 
S:こういうのがおもしろいんだよね、って言ったら僕に貸してくれたのが、マーティン・デニーも含めて、エキゾチック・サウンドだったんですよね。
 
H:そうだったんだね。
 
S:それはやっぱり…僕はちょっと知らなかったんですよ。もういろいろ、ランディー・ニューマン(Randy Newman)の"Yellow Man"とか、(カール・ダグラス(Carl Douglas)の)"Kung Fu Fighting"とか。
 
H:ちょっとエキゾチック系、ね。
 
S:R&Bの中のエキゾチック・サウンド、チャイニーズ・エレガンスみたいな。
 
H:あったね当時、いっぱい。
 
S:そういうものを集めてたんですね。
 
H:うんうん。
 
S:だから(河村さんは)「元々こういうものがあるんだよ」って(マーティン・デニー等を)教えてくれた。
 
H:そうだね、同時進行っていうか。僕の中でも個人的にそうだったから。まあ、たまたま出会ったワケだ。
 
 
Happy Talk - Martin Denny
 
 
S:さっきの話の中で一つ言えるのは、細野さんのところに僕がカセットテープを貸した、ってくだりがあるじゃないですか。
 
H:はい。
 
S:あの辺はね、色んな人が色んなことを言ってて、それで僕は黙ってたんですけど。コレクターズマガジン、ですか?そこから「実際はどうだったんですか?」っていう話が来たんですよ。
 
H:あー。
 
S:で、マーティン・デニーと実際に会った時の対談とかもその時に載せて。細野さんのシリーズをずっとやってる…ありますよね?それで来たんですよね。
 
H:ありますね、泰安洋行の。
※引用者註:『レコード・コレクターズ』誌上で連載されている「追憶の泰安洋行」(by 長谷川博一)のこと。ここで言及されているのは2017年8月号の回か?(未確認)
 
S:だからさっき細野さんが言ってた話だと、ちょっと違うんですよ。
 
H:違った(笑)
 
S:だから、そこがなんかズレちゃうなあ、とは思ってるんですよ。だからさっき言ったように、僕と河村要助の…僕の回想録の中に「感性が共鳴した人 2人」、当時、河村要助と細野さんっていうね。そういうコーナーがあって。
 
H:うんうん。
 
S:まず、細野さんと会うかなり前から彼(河村)と交流があって、レコードの貸し借りがあって。で、僕は僕でそのエキゾチック・サウンドっていうのは独自に色んな音源を集めてたワケですよ。そしたら彼が「こういう音源が好きだったらこういうのあるよ」って聴かせてくれたのが…
 
 
S:だから「エキゾチック・サウンド」に対する僕の思いっていうのは、当時の原稿にも載せましたけど、いわゆるその…マーティン・デニーだけじゃないんですよね。いろいろあって。
 
H:あったね。
 
S:で、その中の…驚いたのはマーティン・デニーからアーサー・ライマン(Arthur Lyman)から、いっぱいあるワケですよね。で、そういう一群があったというのは僕はちょっと知らなかったんですよ。
 
H:うんうん。
 
S:で、違うものを集めてて、(河村氏が)「こんなのが好きなんだったらこういうのがあるよ」って言うんで知ったのね。で、それに夢中になってる時に…僕もちょうどヤマハで編集やっていると同時にレコーディングしてたんですよ、自分のアルバムをね。
 
H:それは知らなかったね。
 
S:で、そのアルバムの録音をやってて、僕は僕で音を作ってたんですけど…
 
H:ちょっと待って。その音源はどうなってんの?
 
S:その音源は…あの、えーと…それも書いてあります(笑)
 
H:そうか、読むけど(笑)
 
S:で、その(細野さんにカセットテープを貸したくだりの)ことはみんな、色んな人に質問されて。この間もハイロウズの。彼に会ったときに話してたら急にいきなり…
 
H:うん。
 
S:「細野さんのエキゾチック・サウンドのきっかけもs-kenさんですよね」って言われたのね。
 
H:僕もそう思うよ。
 
S:彼みたいな人も知ってるワケね。
 
H:知ってるんだね(笑)
 ※引用者註:2017年、s-kenのソロアルバム『Tequila the Ripper』リリースに伴って行われた甲本ヒロト(元ザ・ハイロウズ、現ザ・クロマニヨンズ)との対談記事。
 
S:だから、この問題はかなり重要なことみたいで。
 
H:そうなんだね(笑)
 
S:僕も色んな人に色んなこと言われちゃうんですよ。だから今回、ちゃんと書こうと思ってちゃんと書いた。
 
H:そうか。読もう!
 
S:僕はその中で最初にインスピレーションしたのはマーティン・デニーじゃなくて、『旗本退屈男』なんですよ。
 
H:(笑)
 
S:そのことが書いてあります。あとはやっぱり、僕らの近くにあるのはチャイナタウンくらいしかなかったんですよね。異人都市みたいなものが。
 
H:そうそうそう。で、最後に僕にひと言くれたんですよ、s-kenが。僕がそういうのを集めてるの知って「チャイニーズ・エレガンスですね」って言ったんだよね。まあ、それがいまの話だよ、つまり。
 
S:その「チャイニーズ・エレガンスだよ」って言ったというのが…細野さんの影響力っていうのはすごいじゃないですか。だから僕がちょっとアドバイスしたっていうだけでも、僕のところにはかなりの質問がね、来てて…
 
H:(笑)
 
S:僕はなにも、25年間言われてもあー、あーって聞いてたらみんな勝手なこと言ってたんで。
 
H:尾を引く話だよ。
 
S:こういうこともちゃんと書いとかなきゃいけないなと思って、今回は書いたんです。
 
 
 
H:えー、絶賛発売中の『S-KEN 回想録』。これはじっくりね、僕も読みたいなと思って。冒頭見てたら、色んな人と繋がりがあるでしょ?s-kenは。
 
S:やっぱり…アタマ(冒頭)に世界旅行をして帰ってくるっていう場面があって、それで帰ってきたら編集をやらされたっていうことで…編集やってると色んな人に出会うじゃないですか。
 
H:うんうん。
 
S:で、いま考えるとその人たちが、細野さんも含めて、みんなすごい人になっているっていうことですね。
 
H:なるほど。まあ、自分(s-ken自身)もそうだよ(笑)
 
S:まあ…(笑)
 
H:いや、こうなるとは思わなかったもん。当時、会った時はね。なんかこう、文学的な人なんだなって思ってたら、パンクになって来たから(笑)
 
S:いや、僕だって(NYから)帰ってきたら(細野さんが)テクノカットになってて驚きましたよ(笑)
 
H:ああ、そうか(笑)
 
S:僕はサングラスで短髪になって帰ってきたら、同世代の人であんまりいないんだけど…少し経ってから近田(春夫)さんとか、遠藤賢司とか、そういう人がニュー・ウェーヴに影響されたりしたんだけど。
 
H:そうだね。
 
S:(細野さんは)いきなり、帰ってきたらもう短髪のテクノカットになってて、こっちはパンクカットになってて…だから、細野さんも驚いたかもしれないけど、僕も驚きました。
 
H:そっか、お互いに驚いてんだね(笑)
 
S:うん。
 
H:あのね、回想録のコメントっていうのかね、いとうせいこうが書いてる。
 
  「エスケンさんがいなければ日本の音楽シーンはこんなに豊饒じゃなかった。あらゆる若い才能をボスはフックアップした。ありがたいことに俺もそのひとりだ。」って書いてますね。いや、そんな人が多いんじゃないかなって思って。鋤田(正義)さんも書いてるしね。んー。
 
  なんかあの、その当時の人脈というか、やってることとか考えると、メジャーの中で大きくなってプロデューサーになったりする可能性もあったでしょ?(結果としては)なんなかった、というか、インディーズに深く入っていったでしょ?
 
S:そういう意識はあんまりないんですけど、いわゆるその…根源的に自分の好きな音楽っていうのがね、やっぱりアメリカに行ってわかったんだけど。いわゆる例えばジャズにしても、R&Bにしても、出どころっていうのはどっちかって言うとスラムとか、そういうところから出てきてるわけですね。
 
H:うんうん。
 
S:僕が行ったニューヨークでかなり影響を受けたパンクにしても、バワリー(Bowery)っていう所は当時は20時くらいに女の子がそこを歩いてたら首を絞められるような所だったんですよ。
 
H:おー、そっか。
 
S:それから、ちょうど同時期の1977年、サウス・ブロンクス(South Bronx)ではヒップホップが興ったけど、クール・ハーク(Kool Herc)にしろ、アフリカ・バンバータAfrika Bambaataa)にしろ、みんな20歳くらいでしょ?
 
H:そうね。
 
S:で、やっぱり恐くて行けなかった所だった。いまのシリアみたいな感じで。放火ばっかりされてて。
 
H:恐いよね。
 
S:それでソーホー(SoHo)ではちょうど、いまのダンス・ミュージックの走りみたいな、ラリー・レヴァンLarry Levan)とかが、パラダイス・ガレージ(Paradise Garage)とか、やっぱり1977年に出てきてる。それはもうゲイ。ゲイしか入れない、みたいなね。
 
H:んー。
 
S:そういうような、日本だと新しいものが出てくるのは青山とかさ、原宿みたいな感じじゃないですか。
 
H:そうだね(笑)
 
S:どっちかっていうと山谷みたいな所から出てきてるワケですよね。
 
H:ぜんぜん、シチュエーションが違うワケだね。
 
S:そうなんですよ。だからそういう意味で…やっぱりそういう所の、特にパンクのシーンで、何人かが頑張ればそういうことが出来てるのを見たから、あの東京ロッカーズだけは、そういう所で、僕が(NYのシーンを)知ってる人間として、まあ天命かもしれないから、ちょっと踏ん張った、っていうとこですね。
 
H:なるほどね。
 
S:僕(個人として)以外にも、いわゆるそのネットワーク(を構築して、支えていく)みたいな部分で。
 
H:それはわかるわ。あのー、本っ当に音楽好きなんだね。
 
S:自分の音楽の好きなものを追求していくと、結局そこかなっていう風になってきちゃうんだよね。
 
H:なるほど。まあ、そこら辺はおんなじだけどね、僕もね。
 
S:あ、そうですか。
 
H:決して、自分をメジャーだとは思わないし、インディーズとメジャーの間でなんかやってる、みたいなね(笑)
 
S:メジャーだとかインディーズだとか、別にこだわっているワケじゃなく、自分がやりたいことをやってる、それが続くまでやろう、と。
 
H:じゃあ、それもおんなじ。んー。
 
S:続いたら…ニューヨークからパワーをもらった、というのは、「あ、そうか。食えなくなったらやめりゃあいいんだ」と。それまで悩むことはねえな、と。で、まあ、この歳までなんか運がよかったのか、やり逃げというか、続いちゃったってことですよ。
 
 
 
H:で、前、アルバムを僕がベースで手伝いましたよね。あのアルバムが素晴らしかったんで。
 
S:あ、よかったですか。
 
H:なんていうの、歳とるとよくなるんだな、と思ってね(笑)
 
S:(笑)コメント書いて頂いてありがとうございました。
 
H:そうですね。
 
S:あのコメントがちょっとシビれましたね。
 
H:なんて書いたっけ?(笑)
 
S:なんかね、「東京の音楽だ」と。でなんか、べらんめえがカッコいい、みたいなことを言われて、それがすごく本質的なことだと思いますよ。
 ※引用者註:細野さんのコメントは次の通り。
 

 「エスケン!人柄も音楽もべらんめえでカッコイイ。

 年を重ねると音楽に渋みが出てきてこの土地柄にフィットする。

 そうだな、日本じゃなくて東京の音楽だ。

Comment - s-ken official site private eye

 

H:はい。
 
S:なんか、気分はアフロ・ビートみたいなものですけど、心の中は。でも(それが外に)出てくると訛りが出るじゃないですか。
 
H:そうだね、東京なんだよね(笑)
 
S:それでいいんじゃないかな、って。訛りが出ないとマズいんじゃないかって。
 
H:そりゃそうだね。それじゃあ、ただの写し、コピーになっちゃうとおもしろくないしね、うん。まあそこら辺も世代が似てるし東京生まれっていうのも似てる、っていうのはあるなあ。
 
S:ありますね。特に…細野さんはぜんぜんその、いつも会って相談しているワケでもない。
 
H:ほとんど会わない(笑)
 
S:ね。でもそれが、なんとなく、どんなスタイルでやろうが、聴いてるうちに奥底で感じてるところがすごく共鳴する、っていうか。
 
H:なるほどね。
 
S:言葉じゃなくて。
 
H:同じですよ。
 
  音楽かけないとね(笑)(s-kenは)プロデューサーとしてもすごい量なんで…で、最近、というかここ数年前なんですけど、いいなあ、と思って聴いてたのが、中山うりさん。素晴らしい女の子。ビックリしましたよ。サンバやってたりね。
 
S:この前レコーディングしてる時に言われてすごい驚きました。
 
H:そうですか。いやー、最初は知らなかったの、s-kenがプロデュースしてるって知らなかった。これ、誰がやってるんだろう、って思ってね。
 
S:(笑)
 
H:そしたらs-kenか、やるなあ、と思ってね。ビックリしましたよ。
 
S:ありがたいことです。
 
H:じゃあその…同時にね、コンピレーションが出るんですよね。6/27に。自叙伝本とコンピレーションの…抱き合わせじゃないですけど(笑)CDが出るんで、これはやっぱり聴きものですね。そのCDの中から、2枚組のDisc1のほうに入ってます。中山うりさんの"マドロス横丁"。聴いてください。
 
 
(from『s-ken presents Apart.Records collection 1999-2017』)
 
 
H:いいね。あの…ベルヴィルを思い出すね(笑)
 
S:なんていうかな、港…生まれ育ちも近くに魚町があり、桟橋があり、小学校の裏も岸壁だったんで、どうしてもなんかこう、港っていうか、それに関してすごく…
 
H:どこら辺の地域なの、それ?
 
S:僕は大森ですね。
 
H:大森か、いいところだ。
 
S:代々うちは品川なんですよ。
 
H:んー。港町か。
 
S:だからやっぱり海と関係あるっていうか。今度のソロアルバムも最後は港から旅立つ、みたいな感じなんですよね。
 
H:僕もそうだよ、港区だからね(笑)
 
S:『TROPICAL DANDY』にもそういう曲がありましたよね。
 
H:海辺っぽいんだよね。まあ、共通点はいっぱいあるな。でもいまの曲も、共通点っていえば、さっき言ったけど『ベルヴィル・ランデブー(Les Triplettes de Belleville)』に影響されてますよね。
 
S:そうですね。その『ベルヴィル・ランデブー』そのものがジャック・タチ(Jacques Tati)だとか、ジャンゴ・ラインハルトDjango Reinhardt)のオマージュみたいのやってるじゃないですか。
 
H:はい。
 
S:その元々のものが案外好きなんで。
 
H:そりゃそうだよね(笑)マヌーシュ(Manoush Swing)、んー…いいよね…
 
S:いわゆるその、そういうブガルー(Boogaloo)にしてもそうなんだけど、ジャンゴ・ラインハルトをポップスとして完成させたものが(日本には)なかったから。
 
H:あー、そうね。
 
S:日本の場合は(マヌーシュジャズを)民族音楽としてやってる人が多いんだけど、それを、その良さを取り入れた日本の音楽にしていくっていう作業で…過去の人はかなりやってたじゃないですか。
 
H:そうね、んー。なんか研究会みたいだね(笑)
 
S:だからそれ(最近は誰も)やってなかったんじゃないかなと思って、とやってみようかな、と。
 
H:そうね、そういうのを表現できる人がいるっていうのもまた素晴らしいよね。
 
S:そうですね、(中山)うりちゃんが現れた時に…持ってるものが…あの声と、ピッチ感があって、どうするか考えてたんですよ。
 
H:うん。
 
S:で、やっぱり高校生のときにはトランペット吹いてたっていう。で、普門館とかでやってたったいうね。その楽器を弾くキャリアをどう活かすかっていうところで、「アコーディオンいいんじゃない?」って言ったら、なんと次の日に買って来たんですよね。
 
H:アコーディオンのセンスいいよね。なかなかいないですよね。
 
S:いないですよ。
 
H:まあでも、そういうs-kenのエッセンスをつぎ込んだんだね、うりさんにもね。
 
S:なかなか珍しい…プロデュースする人ってほとんど自分が片想いっていうかね、そういう人ばっかりをプロデュースできたっていうことはラッキーだと思うけど。
 
H:うん。
 
S:うりちゃんの場合は特に…随分歳が離れてるのに、なんか近いんですよね、センスみたいなものが。じゃあこれは自分のセンス出していいな、っていう。
 
H:なるほど。なかなかね、いないんだよね。
 
S:いないでしょ?(笑)
 
H:僕もやりたいけどいないんだよ(笑)うらやましいよね。
 
S:25年間もプロデュースの世界にどんどん入ってっちゃって…
 
H:そうだよ。プロデューサーとしては、やっぱりプロだよね、それは。
 
S:入ってっちゃったから、だからもう…色んな人に出会うワケですよ。そういう意味ではその中でも…これ(コンピレーション)は近年の、ここ18年間の…
 
H:近年のを集めて2枚組に。
 
S:それで、これからメジャーになっちゃった音源っていうのは入ってません。あの、入れられない。一つのアルバムの中に。
 
H:そうかそうか、バランスがね。
 
S:ここに根っこがあるんで。ここで鍛えたものがメジャーに出て、花開いたっていう。
 
H:メジャーで花開いた人って誰?
 
S:PE'Zだとか、中山うりもそうだし、コーヒーカラーもそうだし。
 
H:そうだね。
 
S:その根っこみたいなものが、1999年に根っこを作ることができた。一つの夢だったんです、自分のスタジオがあって、みたいのが。
 
H:いいよね。
 
S:随分歳を取ってからそういうことができるようになったのは、ラッキーかな、と。
 
H:いやー、なんか、恵まれてるなと思いますよ、ホント。んー。
 
S:運がいいねって言ってくれる人は多いんですよ(笑)
 
H:たしかに(笑)
 
  そういうワケで…えー、1曲しかかからなかったけど(笑)話はホントにキリが無いので。また来てもらうしかないね。
 
S:キリが無いですよ、うーん。
 
H:また来て。お願いします。えー、s-kenさんでした。
 
S:はい。どうもありがとうございました。